こども食堂の運営ブログ

川崎のプラザ橘でのこども食堂と母子家庭支援施設でのカレー支援の共有ブログです。

子ども食堂を始めた背景、経緯、きっかけ その② 中学、高校時代 

いつもご覧いただきありがとうございます。

今回は子ども食堂を始めた背景、経緯、きっかけのその②をお伝えしていきます。

その①はこちらです。

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今回は中学、高校時代の内容です。

母と子の二人三脚のズレ

中学時代

小学生から中学生になりました。

家は相変わらず貧乏。

子どもが大きくなり、食費も増えたり、必要なものも買わなきゃいけなくなったり、母は大変だったと思います。

化粧もせず、暑い日も寒い日もガードマン

自分が欲しいものもあったと思いますが、自分のためには何も買わず、子供と自分たちの生活のために、毎日毎日働きに行っていました。

母と子の生活も、この頃には10年以上過ぎています。

頼る人もいない、お金が潤沢にあるわけでもない、でもいつでも笑顔の強い母

「あれほしい。」「これほしい。」

あまり言いませんでした。

お金がないことは子ども心に感じていましたから自然と我慢していました。

ただ、どうしてもほしいものは欲しいと言いました。

母は笑顔で、値段は気にせず買ってくれました。

寂しい思いをさせている、我慢もしているだろう、欲しいものは買ってあげたい、そんな気持ちがあったのではないかと思います。

中学時代はそんな母の姿を、優しくて強い母と認識しながら過ごしていました。

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私、あまり物欲が無いのですが、母の姿を見ていたから、物への執着が無いのかなぁと思います。

有難いことです。

高校時代

高校生になり、私も反抗期を迎えます。

うまくいかないことがあれば母への八つ当たり。

内弁慶でしたね。

会話はあまりしないですし、母を呼ぶにしても「ババア」と言ったり、よくある反抗期です。

狭い家、プライバシーが無いですからね、ぶつかるんです。

幼稚な私からの一方的なけんか。

母は言い返しもせず、受け止めてくれるんです。

「ごめんね。」と。

優しい母ですから何もしてあげられなかったと自分を責めていたのではないかと思います。

生活も大変でした。

母は仕事を変えたのですが、うまくいかなかったんです。

体も50歳前、更年期もあったのかもしれません。

子供はこんなだし、頼りにできる人はいない。

一人で頑張る。

一人の頑張りには限界があります。

母の糸は切れてしまいました。

心の病。

1年ほど入院。

私、高校2年の時です。

一人での生活。

家事を行い、学校に行き、毎日を過ごす。

お金は母のお兄さんの援助をいただいていました。

買い物、料理、洗濯、掃除、家事を行い、一人でいることが多かったです。

一人で考え事をよくしました。

いろいろですが、追い詰めてしまった母の事。

母も一人の人間なんなんだと、気づいたのがこの頃です。

ただただ一生懸命に生きていた母。

強い面も弱い面もある母。

親は親であるけれども、人でもあるんだと。

人は強さも弱さもあるんだと、教えてもらいました。

心が壊れることはあっけない、一人の人間は強くない、だから支えがないといけないんだと知りました。

退院の日、迎えに来た私を見て笑顔の母。

「帰ろうか。」

二人の狭いアパートでの生活がまた始まりました。

「優しくて強い母」とではなく、「一人の人間としての母」と。

私が、優しくて強くならなければと思った時です。

 

次回へ続く‥

1.浅はかだった20代

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