本日も記事を見にきていただき、ありがとうございます。
いつも感謝の言葉を書いていませんでした。
いけません。
つたない記述かもしれませんが、お付き合いくださいませ。
今回は子ども食堂を始めた背景、経緯、きっかけをお伝えしていきます。
少々長めなので、何回かに分けて。
今回は幼少期の思い出をお伝えします。
幼少期の経験
私の父と母はお見合い結婚でした。
最初は東京都の調布市に、親と同居という形で結婚生活がスタートしたと聞いています。
母からの話しか知らないので、確かな事なのかわかりませんが、父の暴力が原因で私が3歳の頃に、母は逃げるように私を連れて出ていったとのことです。
調布市のつつじが丘で母と私の二人の生活が始まりました。
離婚調停は父方は弁護士を立てたけれども、母には余裕はありませんから自ら出廷し、対応していたと聞き、母の強さを感じました。
母子家庭で、裕福ではありません。
木がうっそうと茂った土地の、アパートの2階の1室が住まいでした。
お風呂が無かったので、母に連れられて銭湯に行っていました。
一度、父親が家に来た記憶があります。
私を取り返しに来たのでしょうか。
大きくて、怖かった印象が残っています。
小学生になるころ、調布市のお隣の稲城市に引っ越しました。
怖かった真人君のお父さん
小学生になるといろいろなことがわかるようになってきます。
自分の家に父親という存在が無いこと、家が貧乏なこと、他者との比較から自己を認識するようになりました。
ただ、貧乏でしたが劣等感は無かったです。
母の愛情と、周りの方々の支えに恵まれていたのだと思います。
特にお世話になったのが真人君のご一家です。
お爺ちゃんお婆ちゃん、お父さんお母さん、お父さんの妹さん、家族ぐるみでお世話になりました。
私の家庭環境を知り、気にかけてくださいました。
しょっちゅう、真人くん家に入り浸っていました。
お爺ちゃんは物静かで、自転車がパンクしたら直してくれました。
お婆ちゃんはよくご飯をごちそうしてくれました。
焼きそばとか、生姜焼きとか、家庭の味。
ただ、木曜日はお父さんがいらっしゃいまして、父親に対する免疫が無い私にはとても怖い存在でした。
大きくて、声が低くて、煙草を吸う、ちょっと近寄りがたい存在。
今、当時の真人君のお父さんと同じ歳くらいになり、自分の家族だけでも精一杯なのに、他人の子どもをこんなに面倒みてくれたなんて、どんだけ立派なんだと、偉大さを痛感します。
優しさってこういうことかと教えていただけた。
真人君と友達になっていなかったら、今の私はどうなっていたのでしょうか、もういない存在だったのかもしれません。
原付バイクのエンジン音
母との二人の生活は、愛情たっぷりだったのだと思います。
母の仕事はガードマンです。
交通誘導とかをしていたようです。
いろいろな現場に行きますので、原付バイクで仕事に向かいました。
戸締りは私がします。
朝起きて一緒にご飯を食べ、母を見送ります。
原付バイクのエンジン音が小さくなっていく、母が遠くに行って独りぼっちになる、この時が寂しさを感じる瞬間でした。
戸締りをし、学校に行きます。
小学校3年生までは、学校が終わると学童へ行っていました。
学童が終わると家に帰ります。
母はまだ帰ってきていません。
鍵を開けて、暗い家の電気をつけます。
音が無くて寂しいんですぐテレビをつける、今でも見たいテレビ番組が無くてもテレビをつけてるのは、この時の習慣かもしれません。
待っている間は宿題をしたり、テレビを見たり、一人ですから母の帰りが待ち遠しいんです。
夜7時頃でしょうか。
原付バイクのエンジン音が近づいてきて、大きくなる。
帰ってきたと認識できる瞬間。
母の「ただいま」の声。
母親が帰ってきて嬉しくなる。
そこから母は急いで夕食の準備をし、一緒にご飯です。
うどんが多かったかなぁ。
袋の茹で麺を買ってきて、煮汁にぶっこんで出来上がり。
具材はかまぼこ、茹でたほうれん草。
いつも同じ。
いつもあるのはもう一つ。
お腹を空かせた私がうどんにがっつく姿を見て、私に向ける母の笑顔。
いつも同じ。
「おいしい?」
「うん」
実はほうれん草をいっぱい入れられるんで、嫌だったんです。
でも全部食べた。
たまに母をチラ見します。
目が合えばすぐ笑顔を向けてくれる。
愛情を感じる瞬間。
母も疲れているので、たまにお弁当買ってきたりしてました。
母は料理が上手ではありませんでした。
子ども心に、うどんより唐揚げ弁当の方がよかったなぁ、なんて思っていた記憶があります。
今でも原付バイクのエンジン音を聞くと、あの頃を思い出します。
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